たぬぴこ!生産性を高めて『ゆる賢く』生きる

環境やツール選びなど、生産性を高めることで『ゆる賢く』生きることをオススメするブログです。

【感想】アメリカ・インディアンの書物よりも賢い言葉【エリコ・ロウ】

f:id:hidden_12:20210610182452j:plain

f:id:hidden_12:20210610182516p:plain

アメリカ・インディアンの書物よりも賢い言葉』エリコ・ロウ著。

母から「読んでみる?」と渡された本のなかの一冊を読了。

 

 

書物よりも賢い言葉

f:id:hidden_12:20210610193632j:plain

アメリカ・インディアンの書物よりも賢い言葉

アメリカ・インディアンたちのものの捉え方や考え方、またそれらの基盤となる、連綿と受け継がれてきた宗教観、死生観といった、彼らの自然崇拝的儀式から導かれる「生きるうえでの真理」がどんなものか、に迫る内容。

 

私は、自然崇拝やシャーマニズムの類は、文字によらず口伝えで知識を継承する、いわゆる「口伝」(くでん)を重んじるものだと思っていたので、結構細かな儀式の内容などが綴られていることが新鮮でした。

外部に漏らしていいのだろうか、とちょっとだけいらぬ心配をしつつ読みました。

 

自然崇拝は日本における「八百万の神」の考え方に近いものだと思っているのですが、その考え方を突き詰めれば、他者や異文化に対して寛大でいることで、かえって楽に生きられる、ということなんじゃないかなと感じます。

言い換えれば「はじめから疑ってかかるより、信じるほうが楽」だということ。

 

本書でも触れられている、雨乞いなどの祈祷や天啓を得るための儀式など、現代の日本人から見れば極めて原始的な方法であり、なんの根拠もないもののように見えます。

しかし、彼らはそこに真理を見ているのです。

実際に儀式によって一種の催眠状態になり、眠らずに夢を見ていることもわかっているようです。

 

そういった儀式などから導き出される答えは、至ってシンプルなもの。

無駄を削ぎ落とした答えは、あるときは直接的に、またあるときは示唆的に、真理へと向かうわけです。

 

母から借りた本のなかにもう一冊、ネイティブ・アメリカンの詩集がありました。

f:id:hidden_12:20210610210241j:plain

今日は死ぬのにもってこいの日

こちらの書籍も、人が生まれ、生きて死ぬまでのごくあたりまえのことが、シンプルな言葉で淡々と綴られています。

 

発達した文明社会で、あふれる情報を手にしているはずの現代人は、これらの真理をみずからの経験や理解のうえで、きちんと手にできているでしょうか。

原始的だと嗤う彼らの儀式や、自然を洞察することで得た答えといったものこそ、実はより真理と呼ぶに相応しいのかもしれません。

それは、人が生きるうえで本当に必要なものだけで生きているからこそ、得られるものなのだと思います。

 

日々を忙しく生きて、なにかを守ろうと理論武装して、本当に大切なことから遠ざかっていませんか?

これらの書籍は、そんな問いかけをしているようでもあります。

 

 

ゲーム作品で出会ったアメリカ・インディアン

f:id:hidden_12:20210610210822p:plain

まず思い浮かべたのは小島秀夫監督のゲームMETAL GEAR SOLIDの登場人物。

巨漢のシャーマン、バルカン・レイブン。

f:id:hidden_12:20210610211225j:plain

バルカン・レイブン

 

そして本書にも登場するナバホ族は、METAL GEAR SOLID V』のキャラクターとして登場しています。

f:id:hidden_12:20210610201519j:plain

阪脩+コード・トーカー

ナバホ族は、アメリカ軍が暗号通信兵として使用した、いくつかのアメリカ・インディアン部族のうちのひとつ。

 

「国外でその言葉を解する者がいない固有の部族語」を暗号(コード)とし、前線で無線通信を行わせることで、傍受されても解読されないうえ、言葉がわかる者同士であれば円滑に情報がやり取りできる、というもの。

暗号を喋る、という意味で彼らは「コード・トーカー」と呼ばれていました。

 

METAL GEAR SOLID V』で引用されていた印象的な言葉があります。

 

人は、国に住むのではない。国語に住むのだ。

『国語』こそが、我々の『祖国』だ。(エミール・シオラン/ルーマニアの思想家)

 

言語が、国同士、ひいては個人同士を分かち、理解を妨げているところは大いにあります。

そこに生まれるのは「不寛容」や「警戒」あるいは「疑い」など。

それぞれに異なる言葉があるがために、誤解や争いを招くといえなくもないでしょう。

同じ日本人同士ですら「おや、違う国の人なのかな」と感じる相手もいますからね。

 

たとえば、英語が苦手だとされる日本人ですが、ちょっと話せる人がいると「発音がおかしい」だの「文法が間違っている」だの、批判の言葉を発する人が少なくありません。

そんなときによく言われるのは、人と理解し合うときは「正しい発音・文法」ではなく「伝えようとする気持ち」が大切だ、ということ。

これも、ひとつの真理だと思います。シンプルですよね。

 

多くの情報があたりまえに手にできるようになった現代。

調べればなんでもすぐにわかるので、賢くなったと勘違いしてしまいがちです。

しかし実際のところ、知識が身についているわけではないのです。

身についているというのなら、ひと月後に同じ質問をされて、調べずに答えられるでしょうか。

情報に踊らされていることにすら気づかない場合だってあります。

そこから、真理にたどり着くことができるでしょうか。

 

言葉が通じない相手とわかり合うために必要なのは、論理的な言葉ではなく、案外もっと原始的な方法だったりします。

よく国境を越えると表される「音楽」も、そのひとつですね。「踊り」もそうでしょう。

異国で言葉が通じないはずなのに、身振り手振り(ボディーランゲージ)で不思議なくらい通じた、という話もよくあります。

 

ごくシンプルなことのなかに、真理は隠れているもののようです。

 

見えていないだけで、本当は『書物よりも賢い言葉』を、我々はすでに手にしているのかもしれませんね。

 

 

それでは今回はこのへんで!

最後まで読んでくださってありがとうございます(´ω`)

プライバシーポリシー お問い合わせ