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【雑記】山本周五郎:「さぶ」は脇役の描かれ方でなぜ題名になったのか【小説】

今回は、母から「読んでみて」と借り受けた

『さぶ』(著:山本周五郎)について。

ネタバレ含みますので閲覧にはご注意ください。

 

 

山本周五郎『さぶ』

母は山本周五郎さんの作品が好きみたいです。

以前は同じように『日本婦道記』も借りて読んだことがあります。

 

『さぶ』は、山本周五郎の時代小説。

1963年1月から1963年7月まで「週刊朝日」に連載され、1963年8月に新潮社ポケット・ライブラリから刊行された。

江戸下町の表具店に働く2人の青年の友情を描く。

現在は新潮文庫に収録され、ロングセラーとなっている。

新潮文庫版の累計部数は100万部を超える。(Wikipediaより)

 

物語導入は対照的な「さぶ」と「栄二」の人物像が鮮明に描かれています。

人から「ぐずでのろま」といわれる「さぶ」が、ウダウダと弱音を吐くところを

器量よしで異性にもモテる「栄二」に慰められているシーン。

 

これだけで、2人の関係性がわかり、読み手はスッと感情移入できますね。

この段階で、読み手によっては自然と「さぶ」に感情移入する人と、ああ、こういう人いるよなあと思いながら「栄二」に感情移入する人に分かれそうな気がします。

どちらに自己を投影するかで、場面の見え方も変わります。

 

作中において象徴的なのは「おら、思うんだが」の前置きで話す「さぶ」が、なにかとまどろっこしく、言い訳がましく語り、その様子にたまりかねた栄二が、なかば話を遮るようにして、ちょっと厳しく返すという場面。

こういったやり取りが、冒頭から終わりまで、たびたび繰り返されます。

 

「さぶ」は自分に自信がもてず、とにかく卑屈になりがち。

「栄二」はそんなさぶに、ときに苛立ち、ときに救われながらも叱咤する。

この構図は、身のまわりでもよく見られる、ありふれた人間関係のように思えます。

2人は同じ職人仕事に励む友人関係ですが、どこか対等ではないんですね。

あなたの職場にも、こういう人間関係がないでしょうか?

 

やがて栄二は事件に巻きこまれ、無実の罪を着せられます。

復讐に燃え、身も心もボロボロになった彼は、身を寄せた場所の人々との交流のなかで少しずつ変わっていき、自分以外の人間のことにも、きちんと眼を向け、理解と敬意を払うようになっていきます。

かつての栄二は、ある意味で一度死に、異なる環境で生まれ変わりの道を歩むように描かれているようにも思えました。

はじめは口もきかず、周囲の人を、人とも思わないような状態でしたからね。

 

 

脇役のような「さぶ」がなぜ題名になったのか

物語の結末はここでは置いておくとして、私が面白いギミックだなーと感じたのは、この作品の題名が『さぶ』だということ。

 

題名を知らなければ、どう考えても描写の文量からして「栄二が主人公」なわけです。

が、それでも題名は栄二ではなく『さぶ』なんですよね。

 

ここに、作者の意図が示唆されているような気がします。

 

人からぐずでのろまといわれ、とにかく自分に自信がない「さぶ」と

器量よしで、はじめから「自分は他者を慰める立場にある」ものと、なんの疑いもなく行動に移していた「栄二」。

 

作者は、作中では「さぶ」中心にシーンを描くことを控え、ほとんどが栄二の立場、視点で場面を描いています。

にも関わらず、そこであえて題名に据えることによって『さぶ』に、より強い光をあてているように感じました。

 

なぜこの作品の題名が『さぶ』なのか、気づいて、考えてみてくれ、とでも言われているようです。

そのことを踏まえると、物語冒頭で「栄二」にスッと感情移入するタイプの人に向けての「問いかけ」の作品なのではないか、とも思えます。

 

 

現実へ持ち帰るメッセージ

現実世界で考えてみるとどうでしょうか。

 

自信がなく、優柔不断で、人にあなどられる、言い換えれば『歩みの遅い』人。

そんな「脇役」になりがちな人が、本当に人として「劣っている」のでしょうか?

 

器量よし、世渡り上手、異性にモテて、頭の切れる、言い換えれば『歩みの速い』人。

そんな「主役」になりがちな人が、本当にすべてを見通していて「優れている」のでしょうか?

 

なにか見落としていないか。

双方の存在があってこそ、世のなかは成り立っているのではないか?

そんな作者の「問いかけ」が、この作品にはこめられているような気がしました。

 

私は山本周五郎さんの作品をいくつも読んでいるわけではありません。

けれども『さぶ』も、以前読んだ『日本婦道記』も、人の心の遣い方を描いていると思います。

心理描写に多くの文量を割いていることからも、きっと心理学とか、そういった分野にも造詣の深い方だったのではないか、と作品を読みながら勝手に推察していました。

 

そういえば『さぶ』の作中にも、道徳的な教育をしようとする教師のような人物が、脇役で登場します。

しかし「ありがたい講義」で声高に教えたことを、のちに自身で破ってしまうような人物でした。

 

そういうことも、現実でよくあることだと思います。

「これは間違っている」「こうすべきだ」「こうあるべきだ」と、世のなかにはあらゆる意見が飛び交っています。

なかには本当に素晴らしい考え方もあることでしょう。

しかしながら、声高に発信されているなかには「知っている」だけで、偉くなったような気でいる人も、少なからずいるわけです。

 

見落としがちですが、本当に大切なのは「道徳的な話」そのものや「ありがたい話」を知っていること、ではないんですよね。

自分自身が行動に移して、実践してはじめて意味のあることなのだと思います。

 

ちょっと話が逸れましたが。

 

歩みの遅い人には、歩みの速い人が見落としている景色が、きっと見えている。

同じ速度で歩き続けるのではなく、いろんな歩幅で景色を眺められる人のほうが、きっと豊かな人生だろう。

そんなふうに考えて、視野を広く保っていたいと感じる作品でした。

 

 

それでは今回はこのへんで!

最後まで読んでくださってありがとうございます(´ω`)

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