2015年10月31日にサイバーガジェット社から発売された『レトロフリーク』。
最大15種類の「レトロゲーム機本体」の役割を兼任し、昔のゲームソフトを使ってそのままテレビで遊べるというスグレモノ。
なぜいまレトロゲームなのか。今回はそのあたりを書いています。
レトロフリークとは
ひとつの本体でさまざまなゲーム機の役割を担う。
つまり互換機というやつですね。
基本対応しているゲーム機は以下の11種。
- ファミリーコンピュータ
- スーパーファミコン
- Super Nintendo Entertainment System(NTSC/PAL)
- ゲームボーイ
- ゲームボーイカラー
- ゲームボーイアドバンス
- メガドライブ(NTSC/PAL)※2
- GENESIS(北米版メガドライブ)
- PCエンジン
- TurboGrafx-16(海外版PCエンジン)
- PCエンジン スーパーグラフィックス
ここからさらにアダプタを利用することで、ゲームギア、セガ・マークIII、SG-1000なども遊べるようになり、最大15種類のゲーム機を再現できます。
とはいえ、私が欲しかったのはファミコン、スーパーファミコン、ゲームボーイ(カラー、アドバンス含む)あたりだったので、基本の11種類で充分でした。
- 「どこでもセーブ機能」があるので、気軽にはじめていつでもやめられます。
- 「ゲーム速度」を変更できるため、時間短縮をしつつ、遊ぶことができます。
- 「プレイステーション」のコントローラーが使用できるので、快適です。
- 「インストール」できるので、ソフトを毎回、抜き差ししなくてすみます。
なにより、据え置き機として、テレビ画面でゆったり遊べるのがいいですね。
私は携帯ゲーム機があまり好きではなく、PCゲームも集中できないのでやりません。
PCに向かっているときは「創作モード」なので、気が散ってしまうんですね。
ゲームはやはりテレビに向かってやるのがいいと思います。
蓋をした心残り
『レトロフリーク』があれば、上記のゲーム機たちが現役だったころ、遊んでいたソフトでまた遊ぶことができます。
ときには懐かしいゲームで遊んで、思い出に浸るのもいいでしょう。
実際、多くの人は「またあのゲームで遊びたい」と思って、互換機を買うようです。
しかし、私には多くの「蓋をした心残り」がありました。
当時はソフト1本が高額だったこともあり、どんなに気になるものがあっても、実際に遊ぶことができる本数は、ごくわずかに限られていました。
新聞と一緒に家に届くゲームショップの広告を眺めては、並んだパッケージやタイトルから内容を想像したり、意味もなく「友人たちが遊んで盛りあがっているタイトル」を探してみたりしていましたね。
話題の作品を遊びながら、情報交換などをして楽しそうにコミュニケーションをする彼らが、単純に羨ましかったのでしょう。
当時よく遊んでいた友人のうち、数人は多くのゲームソフトを持っていましたので、貸してもらって遊ぶこともありました。
しかし、私がようやく借りたソフトを遊ぶころには、彼らはもうすっかり新しいゲームの話題に移って盛りあがっていました。
私は当然、新しい話題にはついていけません。
常に輪に入れない状態ですから、そういったときの登下校などは疎外感からか、塞ぎこむようなこともありました。
誰が悪いわけでもなく、いまとなっては仕方のないことだった、で片付く話なのですが、子供というのは生きている世界が狭いですからね。
友人たちの話にどうやっても加われないというのは、ただそれだけでも結構こたえていたことを覚えています。
当時の状況は、それはそれとして思い出のひとつになっています。
すべてがネガティブな話だったというわけではありませんしね。
実際、私は外を走りまわって遊ぶタイプではなかったので、ゲームには救われたことも多かったと思います。
家に遊びに来た友人とは、ゲームがひとつのコミュニケーション・ツールでもありました。
対戦ゲームで駆け引きに頭を使ったり、瞬発力を競ったり、成長過程における豊かな時間を得られたと思います。
いまとなっては、すべてまとめて「いい思い出」だと言えます。
しかしそれでも、やはりどこかに「蓋をした心残り」があったのです。
たとえば私は幼いころ、あまり本を読む子供ではありませんでした。
活字だけでなく、多くの発想や物語が詰まっている「週刊少年ジャンプ」のような漫画雑誌も購読していませんでしたし、同世代の多くがあたりまえに触れるコミックスも、ほとんど触れる機会がありませんでした。
興味はあるけど手に入らないものとして、周囲にただ存在するもの、だったんですね。
友人たちと比べても圧倒的に「作品」に触れる機会が少なかったことが、いまはよくわかります。
まず、自分が興味を抱くような作品を「知る手段」がなかったことも理由のひとつかもしれません。情報の入口が極端に少ないんですね。
だから友人の家に遊びに行くと、いつも珍しいものだらけでした。
『ドラゴンボール』や『ファミ通』などの有名どころですら、友人の家ではじめて知ったくらいでした。
いまになって、あのころもっと本を読んでおけば、教養とまではいかないにしても、いまより豊かな発想や柔軟な視点などといった「感性」が身についていたかもしれない、と感じることがあります。時間はたくさんあったはずなのに。
それと近い感覚で、もし当時もっと数多くのゲームに触れることができていたなら、と感じてしまうのです。
ゲーム音楽なども、そのひとつですね。BGMを聴くだけで情景を思い出し「懐かしい」と感じる機会も、いまよりもっと多くなっていたはずです。
そういった意味では、幼いころに「映画」をたくさん観たかどうか、ということに近いのでしょうか。
映画のサントラなどを聴いて、その曲が流れていたシーンを思い出すことは、多くの人が経験のあることだと思います。
叶わなかった日々を歩き直す
優れたゲームは、映画と同等の、ときには映画以上の体験をもたらしてくれるものです。
映画はスクリーンに映し出される光景をじっと観る受動的な体験。
それに対し、ゲームは能動的な体験です。
みずから考え、操作して物事に取り組み、解決して先へ進んでいく。
これには、映画では得られない種類の「経験」があると思います。
自分で小説を書くようになってからは、なおさらその思いが強くなったような気がします。
小説や映画、音楽、漫画、そしてゲーム。
感受性の豊かな、吸収力の強い子供時代に、もっと積極的に多くの作品に触れておけば、いまよりも感性が磨かれていたのではないか、と。
その分、空想する時間は多かったので、想像力は鍛えられたのかもしれませんね。
そんなわけで、この10年ほどで「自分が触れてこなかった作品を少しでも知っていきたい」という思いは、少しずつ行動に移してきました。
映画や海外ドラマもそれなりの数を観てきました。
小説も、長篇短篇含め150冊以上は確実に読んだでしょう。
音楽も、聴くだけではなく「アーティスト名50音順」に、親の世代の流行歌を歌ったり、いままで聴く機会のなかった90年代のヒット曲をカバーしたり。
漫画やゲームも「作品名50音順」にイラストを描きながら、ストーリーや作品について調べてみたり。
まるで、どこか虚無的だった幼い日々の空白を埋めるようにして、世のなかの「作品」に触れていますね。
そして、ゲームです。
ともかく、いまは中古となって流通しているレトロゲームのソフト。
よほどレアでなければ、探せばある程度は手頃な値段で入手することができます。
幼いあの日、ゲームソフトの広告を眺めていろいろと想像力を働かせていた私は、いまになってその「答え」を知っておきたい、と考えるようになりました。
パッケージや、情報誌でチラ見した内容に強い興味をもちながらも、叶わなかった日々。
友人たちが楽しく語り合うのを横眼に、足早に通り抜けたあのころ。
童心に抱いたまま、置き去りになっていた好奇心や疑問。
見て見ぬ振りをしたような状態で、ずっと蓋をしていたわけです。
いまから感性が磨かれるかどうかはわかりませんが、答え合わせをする機会は、もういましかないのかもしれません。
なにを大げさな、と人には嗤われるかもしれません。
しかし、幼い日々が未解決のままで、本当にいいのでしょうか。
そのことを死ぬときになって思い出して、悔いたくはありません。
「蓋をした心残り」から、ちょっとだけ蓋をずらして、ひとつずつ紐解いていく。
私はそんな思いでこの『レトロフリーク』を手にしました。
時間は限られていますが、就寝前1時間などで、ちまちまやっていきたいと思います。
いくつになっても「知ろうとする気持ち」は、若々しくもっていたいですね。
それでは今回はこのへんで!
最後まで読んでくださってありがとうございます(´ω`)